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初詣で雅楽が聞こえたら何が起きているのか|日本人の無意識

初詣で神社に入ると聞こえてくる雅楽。その音が、日本人の行動や意識を静かに切り替えてきた理由を、歴史と祭事の視点から丁寧に解説します。
CoCoRo編集部

初詣で雅楽が聞こえてきたら、無意識に始まっていること

──神社の雅楽がつくる、日本人の切り替え文化


この記事の目次
  1. 初詣の神社で流れている雅楽という音
  2. 雅楽とはどんな音楽なのか|神社・神事との関係
  3. 「雅楽」という言葉が指している音楽の範囲
  4. 国風歌舞・唐楽・高麗楽が一体として扱われた理由
  5. 雅楽には歌詞がない?|雅楽の歌詞と器楽の違い
  6. 管絃・舞楽として演奏される歌詞のない雅楽
  7. 神楽歌・催馬楽・朗詠など歌詞を伴う雅楽
  8. それでも「雅楽=意味を伝えない音」である理由
  9. 平安時代に整えられ、ほとんど変わらず残っている理由
  10. 雅楽の歴史を考えるうえで欠かせない「断絶」の視点
  11. 中国・朝鮮では王朝交代とともに音楽が断絶した
  12. 日本では政治が変わっても神事が断絶しなかった
  13. 王権神授ではなく「系譜」として置かれた正統性
  14. 明治や敗戦を経ても雅楽が残った理由
  15. 神仏習合の時代でも雅楽が統合されなかった理由
  16. 神仏習合は「解釈」が重ねられた状態だった
  17. 仏教儀礼の音が担っていた役割
  18. 雅楽は「意味を理解させない音」だった
  19. 夏祭りでは雅楽があまり聞こえない理由
  20. 新嘗祭・収穫祭で雅楽が使われる理由
  21. 初詣で雅楽が流れているのは「神を呼ぶため」ではない
  22. 雅楽が整えているのは「神」ではなく「人」
  23. 日常と神前のあいだに置かれている音
  24. 国歌斉唱と雅楽が果たしている役割の共通点
  25. 言語やルールではなく、音で切り替える文化
  26. 生演奏でも、スピーカーでも成立する理由
  27. 雅楽が「一回性」や「表現」を目的にしていない理由
  28. 初詣という場で均質な音が選ばれてきた理由
  29. 初詣で雅楽が聞こえたら、少しだけ思いをはせて欲しいこと

初詣の神社で流れている雅楽という音

初詣で神社の境内に足を踏み入れると、
どこからともなく、独特の音が聞こえてくることがあります。

はっきりした旋律があるわけでもなく、
盛り上がりがあるわけでもない。
強い主張をする音ではなく、
空気の中に静かに広がっていくような音。

それが、雅楽です。

多くの人は、その音を聞いても
「これは雅楽だ」と意識していないかもしれません。
曲名を知らなくても、
使われている楽器を説明できなくても、
まったく問題はありません。

それでも、音が聞こえ始めると、

声のトーンがに落ちる
歩く速度が少しゆっくりになる
写真を撮る手が止まる

といった変化が、
ほとんど無意識のうちに起きます。

誰かに注意されたわけでもなく、
「静かにしなさい」と言われたわけでもない。

それでも、
人の振る舞いが変わる。

この現象そのものが、
雅楽という音の性質をよく表しています。


雅楽とはどんな音楽なのか|神社・神事との関係

「雅楽(ががく)」という言葉は、
学校教育やニュースなどを通して、
一度は耳にしたことがあるはずです。

ただ、その中身については、

古い音楽
宮中で演奏されていたもの
神社で流れている音

といった、
ぼんやりとしたイメージにとどまっている人がほとんどでしょう。

それで問題ありません。

雅楽は、
詳しく理解することや、
知識を持つことを前提に作られた音楽ではないからです。

むしろ、
「分からなくても成立する」ことが、
最初から組み込まれています。


「雅楽」という言葉が指している音楽の範囲

雅楽は、日本に伝わる伝統音楽の中でも、
最も古い体系のひとつです。

ただし、
「日本で生まれた音楽」と言い切れるものではありません。

その中身をたどると、

日本古来の歌や舞
中国大陸から伝わった宮廷音楽
朝鮮半島由来の音楽や舞

といった、
出自の異なる要素が重なって構成されています。

これらが、
飛鳥・奈良時代を経て日本に入り、
平安時代に、
神事や宮廷儀礼で使われる音として整理されました。

雅楽とは、
外から来た音楽が、
日本の制度と儀礼の中で固定された体系
と考えたほうが実態に近いでしょう。


国風歌舞・唐楽・高麗楽が一体として扱われた理由

雅楽は一枚岩の音楽ではありません。

大きく分けると、

国風歌舞(日本古来の歌や舞)
唐楽(中国由来の音楽・舞)
高麗楽(朝鮮半島由来の音楽・舞)

という、
背景の異なる要素が並列しています。

それでも、
これらがまとめて「雅楽」と呼ばれるようになったのは、
用途が共通していたからです。

それは、

人を楽しませるため
感動させるため
鑑賞させるため

ではありません。

神事や儀礼の場を、
成立させるため。

この一点に用途が固定されたことで、
出自の違う音楽が、
同じ枠組みで扱われるようになりました。


雅楽には歌詞がない?|雅楽の歌詞と器楽の違い

ここで、
よくある誤解に触れておきます。

「雅楽は、歌詞のない音楽でしょう?」

この認識は、
完全に間違いではありませんが、
正確でもありません。

雅楽には、

歌詞のない器楽曲
歌詞を伴う声楽曲

の両方が存在します。


管絃・舞楽として演奏される歌詞のない雅楽

初詣や神社で耳にする雅楽の多くは、
楽器のみで演奏されるものです。

笙、篳篥、龍笛といった管楽器
太鼓や鉦鼓などの打楽器

による合奏や、
それに舞を伴う舞楽。

これらは、
歌詞を持たない器楽曲です。

有名な『越天楽』も、
現在一般的に演奏される形は、
歌詞のない管絃曲として知られています。

この印象が強いため、
「雅楽=歌詞がない音楽」
と思われやすくなりました。


神楽歌・催馬楽・朗詠など歌詞を伴う雅楽

一方で、
雅楽の中には、
明確に歌詞を持つジャンルも存在します。

たとえば、

神楽歌
東遊
催馬楽
朗詠

といった「歌物」や「国風歌舞」です。

これらは、
神事や宮中儀礼の中で、
言葉を伴って歌われてきました。

『越天楽』についても、
後に歌詞を当てはめた
「越天楽今様」という形があり、
それが民謡へ影響を与えたとも言われています。

つまり、
「雅楽に歌詞がない」という理解は、
接する機会の多い一部の雅楽だけを見た結果
と言えるでしょう。


それでも「雅楽=意味を伝えない音」である理由

歌詞があると聞くと、
「では、雅楽は何を伝えているのか」
と考えたくなるかもしれません。

しかし、
ここが重要な点です。

雅楽は、
歌詞があっても、
意味を説明することを目的にしていません。

物語を語るわけでもなく、
教えを説くわけでもない。

言葉があっても、
それは儀礼の一部として置かれているだけです。

この性質が、
後に触れる仏教儀礼の音と、
決定的に異なる部分になります。


平安時代に整えられ、ほとんど変わらず残っている理由

雅楽は、平安時代にほぼ現在の形が整いました。

楽器の編成
演奏の型
舞の様式
曲の構造

これらは、その後の時代で
大きく刷新されることはありませんでした。

ここでよくある誤解があります。

「完成度が高かったから、変わらなかった」

これは半分しか当たっていません。

正確には、
変える必要が生まれなかった
というほうが近い。

雅楽は、

流行を競う音楽ではなく
新しさを示す音楽でもなく
個人の表現を広げる音楽でもありません。

一度、

「神事や儀礼の場で、人の振る舞いを切り替える音」

として最適化された時点で、
更新する理由そのものを失いました。


雅楽の歴史を考えるうえで欠かせない「断絶」の視点

雅楽の歴史を考えるとき、
避けて通れないのが
他地域との比較です。

特に、中国大陸や朝鮮半島との違いは、
雅楽がなぜ日本に残り続けたのかを
はっきり浮かび上がらせます。


中国・朝鮮では王朝交代とともに音楽が断絶した

中国や朝鮮半島では、
宮廷音楽は王朝と強く結びついていました。

王朝が変わるということは、

統治者が変わる
正統性の根拠が変わる
儀礼の体系も刷新される

ということを意味します。

そのため、

前の王朝の音楽
前の時代の儀礼

は、
新しい体制にふさわしい形へと置き換えられていきました。

これは、
文化が軽視されたからではありません。

むしろ、
政治と儀礼が一体だったからこそ
起きた自然な変化です。


日本では政治が変わっても神事が断絶しなかった

一方、日本では状況が異なりました。

貴族政権から武家政権へ
幕府が生まれ、交代し
近代国家へ移行しても

神事そのものは、
ほとんど断絶しませんでした。

ここで重要なのは、

政治を動かす権力
正統性の拠り所

が、
完全に同一ではなかった点です。


王権神授ではなく「系譜」として置かれた正統性

多くの国では、

神が王に統治権を与える
神の意志によって王が選ばれる

という
王権神授の考え方が取られてきました。

この構造では、

神の意志が変われば
王朝が交代することも正当化されます。

その結果、
儀礼や音楽も刷新されやすくなります。

日本は、少し違いました。

神が権力を与えるのではなく、
神の系譜そのものが前提として置かれている

そのため、

誰が政治を担うかが変わっても
勝敗が入れ替わっても
時代が近代化しても

神事を更新する理由が生まれませんでした。

雅楽は、
この「更新されない前提」の側に属していた音です。


明治や敗戦を経ても雅楽が残った理由

この構造を理解すると、

明治維新
第二次世界大戦後

といった大きな転換点を経ても、
雅楽が続いてきた理由が見えてきます。

政治制度は大きく変わりました。

それでも、

神事の構造
神前で行われる所作
それを支える音

は、
置き換える必要がありませんでした。

雅楽は、
「体制の象徴」ではなく
「前提を整えるための音」
だったからです。


神仏習合の時代でも雅楽が統合されなかった理由

日本史の大部分は、
神仏習合の時代でした。

神と仏は対立せず、
同じ空間で祀られ、
同じ人々が参拝していました。

そのため、

神事と仏事は完全に混ざっていた

と理解されることもあります。

しかし実際には、
混ざらなかった領域
明確に残されています。

雅楽は、その代表例です。


神仏習合は「解釈」が重ねられた状態だった

神仏習合とは、

神を仏の化身と見る
仏を神の別の姿と解釈する

といった
思想的な重なりを指します。

しかしこれは、

行為が統合された
音や所作が一体化した

という意味ではありません。

神に向けた行為
仏に向けた行為

この二つは、
最後まで別のものとして扱われました。


仏教儀礼の音が担っていた役割

仏教儀礼で使われる音には、
明確な特徴があります。

言葉に意味がある
教えを伝える
理解や修行を前提とする

声明や読経は、

何を唱えているか
何を意味しているか

が重要です。

そこには、

悟り
救済
成仏

といった
時間的な段階や目的が含まれています。


雅楽は「意味を理解させない音」だった

一方、雅楽は違います。

歌詞があっても
意味を説明しない
教えを説かない

雅楽は、
理解を要求しない音です。

だからこそ、

仏教儀礼の音と統合されず
神に向けた行為として
最後まで分けて残されました。

神は、

説得される存在でもなく
理解される存在でもない

という前提に立っているからです。


夏祭りでは雅楽があまり聞こえない理由

ここで、
多くの人が感じている違和感に触れておきます。

「夏祭りでは、
あまり雅楽を聞いた記憶がない」

これは偶然ではありません。

夏祭りの多くは、

地域の人が集まる
賑わいを作る
外に向かって開かれた行事

として発達しました。

そこでは、

音頭
囃子
太鼓

といった、
動きを促す音が選ばれます。


新嘗祭・収穫祭で雅楽が使われる理由

一方、

新嘗祭
収穫に関わる祭事

では、
雅楽が用いられることがあります。

これらの祭事は、

賑わいを作る場ではなく
成果を神前に報告する場

だからです。

人を高揚させる音ではなく、
状態を整える音が選ばれます。

ここでも、
雅楽の役割は一貫しています。


初詣で雅楽が流れているのは「神を呼ぶため」ではない

ここまで読んでくると、
こう思う人もいるかもしれません。

「雅楽は、神を迎えるための音楽なのでは?」

答えは、
必ずしもそうではありません。

神事において、
音楽が必須条件になることは実は多くありません。

無音で進む神事
所作だけで完結する儀礼

も、数多く存在します。

つまり、

神を迎える行為そのものに、
雅楽は不可欠ではない。

これは、
雅楽の価値を下げる話ではありません。

役割が、
別の場所にあるというだけです。


雅楽が整えているのは「神」ではなく「人」

雅楽が直接作用しているのは、
神ではありません。

人です。

話し声が自然に小さくなる
動きが抑えられる
自分が前に出なくなる

こうした変化は、
誰かに命令されて起きているわけではありません。

音が空間に満ちることで、
人の側が、
勝手に切り替わっている。

雅楽は、

神前に立つための
人の状態を整える音

と考えるほうが、
実態に近いでしょう。


日常と神前のあいだに置かれている音

神社の境内に入った瞬間、
突然すべてが「神聖」になるわけではありません。

日常と神前のあいだには、
はっきりした線は引かれていません。

雅楽は、
その曖昧な境目に置かれています。

日常を完全に断ち切らない
しかし、そのままでもいさせない

強く主張しない音だからこそ、
人は抵抗なく、
次の状態へ移行できます。


国歌斉唱と雅楽が果たしている役割の共通点

この構造は、
現代にも分かりやすい例があります。

国際試合の前に行われる、
国歌斉唱です。

選手も観客も、

これから
国と国との誇りを背負った試合が始まる

ということを、
言葉で説明されなくても理解しています。

国歌が流れることで、

空気が変わる
意識が切り替わる
その場の意味が共有される

雅楽も、
これと非常によく似た役割を果たしています。


言語やルールではなく、音で切り替える文化

国歌斉唱も、雅楽も、

長い説明はありません
細かいルールを提示しません

それでも、
その場にいる人たちは、
何が始まるのかを理解します。

これは、

言語による理解ではなく
理屈による納得でもなく

音によって、無意識が切り替えられている
という状態です。

原始的でありながら、
非常に高度な文化でもあります。


生演奏でも、スピーカーでも成立する理由

初詣では、
雅楽が生演奏ではなく、
スピーカーから流れていることも少なくありません。

それを見て、

形だけになっている
本物ではない

と感じる人もいます。

しかし、
雅楽の役割を考えると、
この評価は少しずれています。


雅楽が「一回性」や「表現」を目的にしていない理由

私たちは普段、

生演奏は価値が高い
一回きりの体験が尊い

という前提で音楽を聞いています。

しかし、
雅楽はこの土俵に立っていません。

雅楽は、

誰が上手いか
どれほど感動したか

を競う音楽ではありません。

むしろ、

同じ音が
同じ場所で
同じように鳴る

ことに意味があります。

だからこそ、

楽譜が固定され
型が厳密に守られ
個性が前に出ない

録音であっても、
役割が失われません。


初詣という場で均質な音が選ばれてきた理由

初詣は、

人が多い
流れが早い
安全管理が重要

という、
特殊な条件を持った行事です。

その中で、

音にばらつきがなく
安定して
誰に対しても同じように作用する

均質な音が選ばれるのは、
とても合理的です。

生演奏かどうかよりも、

その場にふさわしい状態を
作れているかどうか

のほうが重要。

この視点に立つと、
スピーカーから流れる雅楽も、
十分に役割を果たしています。


初詣で雅楽が聞こえたら、少しだけ思いをはせて欲しいこと

初詣で、
もし雅楽が聞こえてきたら。

名前を思い出す必要はありません。
歴史を説明できなくても構いません。

ただ、

今、自分の中で
何かが切り替わっている

その感覚だけ、
少し意識してみてください。

1500年前に、
同じ音を聞きながら
神前に臨んだ人たちがいました。

平安時代の人も、
江戸時代の人も、
そして今の私たちも。

同じ音を合図に、
同じように姿勢を整えてきた。

初詣で雅楽が聞こえてきたら、
それは、

神様に会う準備が
静かに始まっている音

なのかもしれません。

CoCoRo編集部
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